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所長のひとりごと

司馬遼太郎 「坂の上の雲」 文春文庫刊8冊を読んで・・・

 昨年末のNHKで放映された「坂の上の雲」の予告宣伝版を見て原作が読みたくなり、インターネットで注文しました。 文春文庫刊8冊は圧巻で、それを手にした時は、年末から3月の確定申告期を控えているこの時期に読み続けられるだろうかと思いましたが、なんとか3月18日に読み終える事が出来ました。
 解説によると、この作品は昭和43年4月から47年8月までの5年間にわたってサンケイ新聞に連載され、その準備段階で5年を超える調査、思索があったとの事です。    私にとって昭和43年といえば、大学を卒業して1年程たった頃で、東京での生活に疲れはて郷里の岐阜県関市の実家に舞い戻っていた頃です。        今から35年も前に発刊されたこの書物を今ごろ知って、読んで、私なりに感じた事を、小学生や中学生の頃に必ず書かされ嫌やだった読書感想文とやらを、書いてみようと思った次第です。     物語は、明治維新後から日清・日露戦争までの約30年間に起きた、または生きた明治の日本人達の生き様を、代表選手として、伊予松山の士族であった正岡子規・秋山好古・秋山真之の3人にまずは的をしぼり当時の風俗や因習や身分制度や近しい親族関係やら、よくもまあ調べた挙げたものだと感心させられるほどの前置きとともに、彼らの足跡を辿る手法でどんどん物語が進んでゆきました。 その後も登場する人物は歴史上誰もが知る人物・伊藤博文、大山巌、夏目漱石、福沢諭吉など、また諸外国の皇帝、軍人、外交官たちの人間模様など豊富な資料やインタビュー等に基づいた描写は、あたかもそこに立ち合って見ていたかの様な臨場感溢れるものでした。  当時の人達は黒船を見てびっくりし、開国によって列強からの侵略の脅威にさらされ、産業も目立った物が無かった貧しい国の日本を富国強兵の一等国に押し上げ様とし、馬鹿にされない為に国全体が一丸となって必死だったのが解り、何とも言えないやりきれなさを感じました。  日清戦争に勝利し、三国干渉で国力軍事力の無さを痛感し、ロシアと戦争をしなければ成らない状況に追い込まれていく様が・・・そして、そこに日本と清国とロシアに翻弄され無力な朝鮮という国が関わり、また、ロシアに侵略併合されたポーランドなどの東欧諸国の実態も絡みあって、現在もその民族宗教紛争の種や根がここら辺りから出来てきたのでは無かったのか、等と思ったり、今の各民族間の争いも、やはり、過去を引きずって来ている事が、少しは解った気がしました。
 日露戦争での、日本と、当時も今も大国であるロシアという国と、中国大陸と日本海で繰り広げた戦争の実況放送を聞いている様な描写のくだりは、日本側の資料と諸外国の史料に基づいて書かれているという事を知って、驚きと共に、小説というよりドキュメンタリーの歴史書というべき書物だと感じています。  乃木将軍が関わった203高地の攻防や旅順攻撃の悲惨な実戦模様や、東郷元帥の連合艦隊がバルチック艦隊をやっつける様も、傍に地図を置いて読むと、従軍記者として現場にいて観戦している程の興奮を感じる事が出来ると思います。

 私にとっては、祖父や祖母の時代であった明治という、今から100年ほど逆のぼっただけの30年間の歴史上の一コマが、この書物を読んだ事で、こんなにも厚くて、重いものを持っているという事が知れた事に感動でした。
 何年に何があった、何年に江戸幕府が徳川家康という人によって興され、1868年には明治維新によって江戸幕府は滅んだといった年表をたどるだけの、学校で学んで来た歴史と言う学科は、何を知らしめる為の学科だったのか?   もっと深い教訓や知恵か゜歴史から学ぶ事が出来るのでは・・・私だけが知らなかっただけの事かも知れませんが、歴史の授業は好きだっただけに、時間の許す限り、これからはもっとそれぞれの時代の事実を現地にも行って深く学びたいと思っています。
 今日があるのは昨日があったからで、明日は今日を歴なければ迎えられない訳だから、今の私が在るのは良くも悪くも過去の積み重ねの賜物だと思っております。 これからもコツコツと努力在るのみです。

三河湾チャリティー100キロウォーキングに参加して!!

10月24(土)・25(日)に参加してから約2カ月近くも経ってから、どうだったなんて、気が抜けた感が否めないですが、振り返っての今の思いを述べてみたいと思います。 結果は68キロ(第五チェックポイント)でのリタイア・ギブアップの為、100キロは歩けなかったです。
 まず、100キロを30時間以内で歩き終える事が完走の条件。時速3.3キロ・すなわち10キロを3時間掛け、100キロを30時間。朝9時から翌日の昼3時までが30時間です。 参加者は1200人程との大会の発表で、3班に分かれてのスタートでした。 私は8時30分の組で蒲郡の玉津浦グランドをスタート。 第一チェックポイント(29キロ地点)迄には途中、吉良町役場、吉良温泉、幡豆中、東幡豆根ノ上を経て太陽の家(29キロ地点)へ。 昼過ぎの4時頃にやっと到着。 約7時間掛かっています。 昼は握り飯を頬張りながら歩き続け、信号で止められた時にストレッチをする位で小休止なんぞする余裕は無かったです。
 第一チェックポイントでフルイに掛けられる訳で、私はこの時点で1.5時間程しか貯金が無い状態だった上に、弱点だった左膝の痛みと右足裏の水ぶくれの痛みが襲って来ていて、耐えられるギリギリの状態だったです。 痛み止めの薬を塗り、テーピングをし直して4時半ごろに此処をを出発。 10キロ先の第二チェックポイント(39キロ)迄を最低3時間掛けて7時半頃にやっとの思いで到着。 暗闇の中、蒲郡競艇場の灯りを眺めながら、海に浮かんでいるであろう竹島を想像しながら痛い足を引きずりながらでした。 この頃からシトシトと雨が降り出して来てカッパを羽織り傘を差しての行進でした。
 
 夕飯と夜食を何処でどうしようと考えながら、第三チェックポイント(49キロ)・10キロ先を目指して此処もすぐに出発。各チェックポイントでは係員やサポート要員の方が拍手と笑顔で出迎えてくれていて、テントの中は筋肉痛や歩けなくなった人たちのケァーとその順番を待つ人達で一杯で、しかも雨だったので身体のケァーも出来ぬままの出発でした。  49キロチェックポイントまでに10時半から11時頃までに到着しないとチェックオーバーで失格となってしまい、その場合は到着達成した前チェック地点が記録とされます。 この10キロは大塚駅南、蒲郡港、ラグーナ蒲郡、臨海公園などの海岸沿いの道から後半は町並みの中をしかも雨が本降り状態の中での行進でした。 小休止するにも雨宿り出来る軒のある所のほとんどは先発の歩く事を断念した人達で占拠されていて座る事も出ぬまま歩き続けていました。 途中コンビニに立ち寄って夕食と夜食を探したんですが、棚の上は空っぽでやむなく菓子パンと牛乳とお菓子を買い込み、傘をさしパンをかじりながら痛い左足をひきづって、やっとのこと第三チェックポイント(49キロ)にたどり着いたのが夜中の10時半過ぎだったと思います。 
 朝8時半から夜10時半までの14時間で49キロ歩いた事を今検証すると、40分くらいの貯金しか無いことになり、この記録は時間ぎりぎりの状態だった事がわかります。 確かに私の歩いている前後には、この頃になると人影は無く、この間私を追い抜いて行く人が10人位はあったかなぁーという有様で、この時間帯でこの地点での状況はまさにアンカーの数人の内の一人だった様な状態だったです。
参加を決めた当時の目標は50キロも歩く事が出来れば上出来だと・・・先達者たる大同生命の三田課長や一宮の岩田先生や家族にはそんな話をしていましたので、ほぼ目的達成でした。  夜中の10時半過ぎにそんな話と身体の状態などを電話で家内に報告している内に、少し元気が出て来て、痛いけどまだ歩けているんだし(左の股関節から左膝への神経の走る痛みと筋肉痛に、右足裏に出来ているであろう水ぶくれの痛みはかなりきつかった)歩け無くなるまで歩いてみるよと言って電話をきりました。

 この先の課題は、第四チェックポイント(60キロ地点)までの11キロを3時間で歩く事。 夜中の2時までに到達しないとタイムオーバーでチェックアウトだと聞かされて、バラバラと7~8人がここを旅立ちました。 新栄、桂三番町、高師口、植田橋を経て・・・浜道町南のチェックポイント(60キロ地点)へ。  真っ暗な歩道を何処をどのように何町を通っているのやら、ただ分岐点や交差点に係員かガードマンの人が雨の中でカッパを来て非常灯を振っていてくれているのを目印に、黙々と歩くしか無いから歩く。こんな夜中にたった一人で何で歩いてるんだろうとか、自分の限界を見極めるんだとか、あと何キロだろうとか、このままこの痛みなんか無理したらどうなってしまうんだろうとか、・・・今、そんな事を考えながら歩いていたのかと思い返しても何にもだった・・・ただ痛い痛い、この痛みに耐えながら次の灯りを目指して左足を引きずって、誰も助けてくれないから歩くしか無いから歩く。  止めようと思えばすぐにでも止める事は出来たのに止めないで痛い痛いと言いながら歩いていた。 道ばたの雨宿り出来るコンビニや民家の軒先には、先発の人、私を追い抜いていった人達で歩くのを止めた人たちや歩けなくなってうずくまって泣いている人もいて、彼ら彼女らを横目で見ながら、一歩一歩黙々と足を前に出す行為を繰り返す・・・自分の力で歩くしかないから歩く、歩を進めなくては待ってくれている灯りに近づけないからと歩いていました。  折り返し点でもある植田橋から浜道町までの畑の中に作られた広くて立派な道路の真っ暗な一本道をたった一人、この頃には私の前にも後ろにも人影は無く、周りには誰も私が歩いている事を認めてくれる人が誰もいない環境の中、かなり歩いたのに分岐点の灯りも見えないし、道を間違えたのかもしれない、ひょっとして分岐点の人がトイレなんかに行っていて見落とされてしまったのかもと思ったりして不安に駆られながら歩いていました。 ずーと向こうに灯りらしいものが動いているのを見つけて・・・遠ざかって消えてしまう車のティールランプに何度も騙されながら何度目かに非常灯を見つけ、たどり着いた時には、私一人の為に灯りを持って待っていてくれたこのガードマンに「ありがとう」と感謝の言葉がほとばしっていました。 ガードマンも「お疲れ様、あと500メートル先の左側のローソンがチェックポイントだよ。頑張って」・・。
やっとこせ第四チェックポイント・60キロ地点までたどり着きました。 夜中の2時近くだったと思います。

 第四チェックポイント(60キロ地点)の係員の人たちからのねぎらいの言葉と、次を目指してここを発するのかを聞かれ、行ける所まで行ってみますと返事もそこそこに気合いを入れ直して出立つしました。 たった一人でした。 歩き初めて5~6分もすると、何処から降って沸いて来たのか、7,8人の集団が足取りも軽やかに私を追い抜いて行きました。 前のチェックポイントで小休止していた連中がレースに復帰したんでしょう。 みるみる内に私の視界から消えて行きました。 此処からの8キロを2時間半で歩く事になる訳で、このころは歩道が狭くて、側溝にコンクリートの蓋をしただけの歩くたびに蓋がバタンバタンと、しかもその隙間にポールがくい込だりの道が続き、ついつい口から不平不満(都市計画がなっとらん!! 税金を何処に使っとるんだ!!)の言葉が、周りに誰もいない事もあって声を出して吠えていました。  この頃からまた左の股関節から左膝へ神経が走り抜ける痛みが戻って来て、左足が使えない・支えが出来ない程の激痛をポールで支えながら歯を食いしばっての歩行でした。 豊橋市に入ったのか、片道2車線で歩道の広さも横5人は歩けるほどの道路がまっすぐに広がって、まだ朝方の4時前なのに街路灯がまぶしいくらいに明るくて、幹線道路の交差点は立体交差と立体歩道橋で整備されていて、さすが都市計画も行き届いているなぁーと思う反面、私の様に足を痛めた者にとっては、交差点のたびにぐるぐると廻らされたり坂や階段を下りたり上ったりと、足が不自由な人や障害者の目線からは車優先の都市計画に、うんざりとしながらブツブツ言いながらの歩行でした。 ビル街に入って遙か彼方をパラパラと歩いている人影を見つけ、また私の300メートルほど先に2人が20メートルぐらいの間隔でゆるゆると動いているのが解って、彼らに追い付こうと必死でしたが距離は縮まらず、私ともう一人が第五チェックポイント(68キロ地点)にたどり着いた時は時間が少々オーバーしていたかも知れなかったですが、アンカーとして待っていてくれた様です。

 いずれにせよ、歩き続ける事が出来たのは100キロでは無く68キロだったんですが、その時点での自分の体力、精神力、忍耐力は限界だったと思いたいです。 今までの生き様の中でこんなにも自分を痛めつけながら歩いた事は無かったし、この事の為にその後の約10日間ぐらいは歩行困難(損傷を受けた左膝と右足裏の痛み)な状態が続いた事を思うと、何かを成し遂げた訳でもないし、得るべき物が何かあったのかも解らぬままで、その後の日々を送ってきました。 参加をした結果報告などをすぐにブログで生々しく語ろうと思っていましたが、語るほどの事も無いと・・・。
日にちが経つにつれて、誰でもやろうと思えばやれる様な事だけど、ただやってみようと思うか思わないかだけの事で、やってみないと解らない事を私はやったという事で少しだけ解った様な気になっています。 私のこんな体験は、私の身体と心に刻みつけられた痛みだけだったのかもしれませんが、でも私にとってはかけ替えのない、経験則になった事は事実です。 来年の100キロウォーキングにも体調を整えて再挑戦する予定にしています。
皆さんも一度挑戦してみませんか!!

プロフィール

税理士 山田丈夫

事務所より

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